きっと響かない

専門学校を出たくせに高等教育機関を出たかのように振る舞う元高専生のブログ。理系でコミュ障でオタクという役満な人生とは是如何に。

また冬が来ても

きっと響かない という名称は

日本語がこんなにも下手くそな

にわかオタク高専生のブログなんて…

という卑下と、

ZARDの好きな曲を組み合わせてしまった

業の深い名付けである。

 

という隙自語を冒頭に、1年以上放置したブログを書いてみる。

 

開始以来の投稿頻度と見せかけて、映画の話は下書きを公開しただけという悲しきモンスターの叫びだ。

 

前々々回の更新、21年7月ですね。夏です。

内容は20年12月の内容でしたね。冬です。

いくら時間停止モノが好きだって、こんなにも時間跳躍しても良いわけがない。

 

婆娑羅的な街には秋という季節はないらしく、すっかり凩が吹き荒れる様相だ。

 

もう布団からも出るのが億劫なので、優しい人に起こして頂きたい。。。

朝ごはんも作っていて頂けると尚良い。

 

そんなこんなで来る冬に、少し期待している。

何か特別なイベントでも来ないかなと、ちょっとばかり期待している。

 

春の来ないブルーに、春風を吹かせたい。

 

もう少し、ブログは続きます。

ではまた

小さな夜 どこにでもあるような奇跡

観てから書こう書こうと思いながらも早2年。

まぁ書きましょう。

 

なんかタイトルが往年の名曲っぽく、

文通相手と好きなアーティストのライブ行く!って盛り上がって、

大きな玉ねぎの下で玉葱汁で号泣するやつではないです。間違いなく。

あれは奇跡というか、約束ドタキャンなので。。。

 

 

かつて僕は本の虫でした、ブックウォームではない、ビブリオマニアだ(珍しく正論

 

中学時代は3年間で1000冊読んでいた、100冊くらいはラノベだったと思う。オーフェンはぐれ旅と美味しいコーヒーの入れ方シリーズは思春期で完結してくれなかったから未だに許さない、でも好き。

 

 

そんな僕が好きな作家がいくつかある

大崎善生とか、市川拓司とか、石田衣良とか、奥田英朗とか、江國香織とか、(あ、こいつブックオフであ行から見だして力つきる奴だ…)

 

そんな僕が、仙台市民として推したいのはWake Up, Girls! もそうだが…

伊坂幸太郎である。またもや"あ行"。

 

僕が伊坂幸太郎大好きと言うのは余りにおこがましい。

伊坂幸太郎が仙台を呼び、仙台が僕を呼び、僕が伊坂を…あれ?やはりおこがましい。

 

アイネクライネナハトムジーク」を観た。

実写映画化したこの作品は、夭折した三浦春馬の主演作品であり、オール仙台ロケとして話題にもなった。

 

青春群像劇というか、まわりの小さなコミュニティの小さな奇跡が、暖かい幸せを呼ぶ。

そんな作品。

 

貶すように褒めるポイントとしては

観た後無性に寂しくなる(個人の感想です)

元カノにめっちゃメッセージしたくなる。

夜中にいきなりどこにいるの?ってLINEしたくなる(ぶっちゃけならない)

 

感情としては前向きな寂しさを覚えるって表したいと思う。

似たような感情を覚える作品は「ゴールデンタイム」、「とらドラ」、「そにアニ」、「just because」(友人談)、「月がきれい」(友人談)などが挙げられる。めっちゃ竹宮ゆゆこである。

 

「人は見た目が9割」という言葉がある。

間違ってはいないと思う。

少なくともこの世の中は。

見た目が悪いって概念は人によって違うけれど、少なくとも一般的な方向性は確かにあって、合致してない人は損している。

正しくは、合致している人だけが得をしている。

 

でもそんな人にも、こんな奇跡はあって良いはずだ。たとえ美男美女が演じてても。

こんな風に明日が来ることを願いたい。

 

何をしても中途半端だし、飽き性だし、変なこだわりあるし、シャイでむっつり、定期で保険貯金たんまりしてても普通預金はあまりない。

こんな男はモテない、雨男でも乾いている。

 

そんな僕でも

生きている事を素晴らしいと思いたい。

そう、思わせてくれるような観後感があった。

 

どこにでもある夜は

どこにでもない夜であって

貴方だけの、私だけの、そんな物語が

小さな小さな奇跡を伴い、笑顔になる。

明日もまた頑張ろうって思える。

 

当たり前を大切にしたい。

ただいまとスプーンに話しても、疲れた自分が映ったって、おかえりって言ってあげよう。

マルあげよう。

 

今日はカレーライスが食べたい。

ビニール越しの恋

アラサー2年目を迎える僕は

 

顎と顎の紙相撲でもなく、

囲碁囲碁サークルゲームでもなく、

エゴとエゴのドッタンバッタンが起こることをどこか期待している節がある。

 

同時に、期待しているだけでは何一つとして、起こらないことも理解している。

 

 

新しい生活様式ニューノーマル

聞こえは良いかもしれない。

でも今まで夢見てきた、ノスタルジーな世界に対して、マスクをつけて距離を取るなんて

風の谷の住人ですらしていないはずだ。

※あの世界観で言えば、風の谷以外の場所に

とても近いのだけれども。

 

下校中に買ったパピコを分ける時も

アルコール消毒は必要だ。

コーヒーかヨーグルトかで愚痴を言い合うのも、食べてから一度マスクをフィット位置まで戻さないといけない。

比べるのはアレだが、2人乗りの自転車だって道交法上ダメなのは分かってても、青春する世代にとっては同じくらいの重要な要素だと思う、多分。

 

 

こんなのアリか。

有無で言えば無しだろう。仕方ないのは分かってる、分かってはいる。

 

出会いもなければ

飲み会もない

残業だけ積み上がるのに

好きなラーメン屋は帰る頃には開いてない

休みの日によく目が覚めたって

映画は延期になって

ゲームはクオリティアップで延期になって

好きなアイドルのライブだっておうち時間

 

外に出てもやれる事って

モンスポットでタバコを燻らすだけだ

 

まぁ、それも、いいか

たまには

 

 

 

終わってはないか。

 

 

ビニール越しの恋なんて

言わばモラルとリビドーのシーソーゲーム

 

 

 

さようならのつづきを

12月13日はデートだった

 

相手は憧れの女性で

初恋の人で

自分自身より僕を知ってくれているような

そんな間柄の人と一緒だった

 

 

彼女から東北に来ている、と聞いた僕は

"どうやって観光するの?"そう返すところを

"車出そうか?"と聞き返してしまった。

断られるだろうという予想に反して

「9時に駅ね」という約束を交わし

レンタカーを借りた。

待ち合わせの駅前ではシェアリングが空いてなかったため、

ローカル線で一駅先に先回りして

青い車を借りた。

 

車の中では2人ともあまり会話せず

僕はハンドルを握る手が震え

話せば声も震え

天使と悪魔が両耳に囁き続けてた。

 

抑えられない鼓動は正直で

体感では5km/hくらいスピード違反だった。

 

 

手を握れもしないくせに

強がって"着いてこい"

なんて、言えたら良いのに。

言えないよ、近すぎて。

 

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海へ行った。

永遠に続くような掟に飽きたのかもしれない。

置いてきた何かを見に行きたかったのかも。

ただ彼女のリクエストだったから。

 

 

あの時あの場所で

さよならから始まることもあるんだと

言い聞かせていたのに

どうしようもなく君が好きで

君が好きでたまらなかった。

 

"好きだ"と言ったら

「わたしもだよ、もちろん」と彼女は笑い

「でも愛せない」と海を見て言った。

 

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それからは他愛もない話をして

海鮮丼を食べて

日本酒を買って

駅まで送った。

 

 

もちろん、次の約束をして。

さようならは、もう少し続くらしい。

 

あけました

こんにちは

 

昨年は9本の記事を書きましたね

やるやる詐欺してたセカチューが主でした。

あとはまぁ、失恋した話ですね。

 

夢は手に入らない、

今はその状態にない物事である

と考えてますが

 

儚さって

失われたものとか、

過去にその状態だったこと

に対しての感情なのかな?

なんてことを最近よく考えます。

 

まぁ何にも縛られず、ゆるゆると更新します。

 

décadenceな冬の海とかね、書こうかな。

12月の青森は寒かったからね、うん。

 

何はともあれ今後ともどうかよろしく。

おしまい の部分

さっきアップした記事の表現で

読み取り方によっては

おしまいのデート がさよならと言っている

と取れる表現になっていました。

 

でも、実はそんな事ないと思ってます。

一区切り、というおしまい。

終わりとかさよならでは無いけど、

なんとなくけじめというか、

返事をしたくて。

 

なんて。伝わるかな。

些細な喧嘩で素直に謝れない気持ちみたいな。

 

 

魔法でも使えたら良いのにね、なんてね

 

おしまい と さよなら

最近本を読む時間が減った。

 

「活字離れ」といった表現があるが、

平成生まれのゆとりっ子としては

この表現は嫌いだ。

 

画面に映る字であっても

活字では無いのだろうかって小難しく考える。

それはそれだけど。

 

ただ25歳になって、10年前の自分の比べて

「食う・読む・寝る・学校」というサイクルが

「食う・スマホ・寝る・仕事」となったのは

最早火を見るよりも明らかだった。

 

自他共に認める本の虫が、

そう言えば高専に通い出した辺りから

段々とその鳴りを潜めていった。

 

ローズキャッスルからバスと電車で1時間半、

千住の町は緩やかで穏やかで暖かかった。

とても世紀末都市足立区と

隣り合っているとは思えないくらいの

エモい下町だった。

 

下町と言えども、

僕にとっては憧れの東京であったし、

15の僕には刺激が強い日々だった。

 

今頃地元の友人は何してるだろうか、

なんてセンチになった事もあったと思う。

幸い友人に恵まれ、楽しい5年間だった。

失う事が怖しく、悲しく、愛しい日々だった。

 

何事にも終わりが来ると、

体感でも知識でも知っているけれど。

 

それでも来ることを

自覚しないようにしている自分がいる。

 

エモーショナルで、

ノスタルジックで、

センチメンタルな、

この感情を思うまま書こうと思う。

 

最近好きな人から本を貰った。

「おしまいのデート」 瀬尾まいこ

好きな人であって、恋人では無い。

 

ただ、13の頃から不定期に会っては

ご飯を食べて別れる

という不思議なイベントを続けている。

これは僕が引っ越してからも会っていた。

 

やましさが有るのは僕だけで、

向こうには微塵もない。可能性すらきっと。

 

突然送られてきた本に、

勘繰りを入れながら読んだ。

表題通りというか、書き出しが物語る。

「今日でこんなふうに会うのは最後だ。」

 

自分でもびっくりするくらい動揺もなく、

2時間ほどかけて読了した。

 

Tシャツにジーンズのような飾らない感じで、

14時まで寝てしまったけど

とてもスッキリと目覚めた、

そんな日曜日の昼下がりみたいな本だった。

 

読み終わって、時計を見たら15時

軽く息を吐き、すっごくお洒落して出かけた。

下ろし立てのシャツを着て、

お気に入りの靴を履いて、

珍しくコンタクトも入れた。

 

実感が湧かない、と言えば良いのか。

電車に乗るまでぼーっとしてた。

ホームにいた地下鉄に乗ってから

どこに行こうかと悩み出した。

 

ショッピングセンターの人魚マークで

コーヒーを買って、飲みながら歩く。

視界の隅に本屋が入ってふと思った。

 

「僕もさよならって言いたいな」

 

手紙を書く代わりに、本を贈ろうと思った。

 

 

「人生を変える本」ってあるだろうか

 

 

僕は僕なりに知っている。答えはある。

 

僕の中では

そのときは彼によろしく とか

池袋ウエストゲートパーク とか

アジアンタムブルー とか

真夜中の五分前 とか

持っていない自分が、

持っている側の視点に

入り込める感覚を得ることを大事にしたい。

持っているからこそ、失う事が怖いし辛い。

 

ただ7つの時から互いを認識した間柄で、

隠し事も特になく、

切る手札をきっと知ってる相手に贈る、

さよならの本ってなんだ?

 

 

答えは出なかった。

女々しく「終わりたくない」と思うばかり。

 

でも本は買った。

答えを出せない自分が、

店を出ようとして、

入口の新刊コーナーを通りかかり、

気になってしまった。

 

読んだ事のない本を2冊、同じ本を買う。

25年生きてきて初めてだった。

まだ初めてに出会う自分に少し驚いた。

 

そして、さよならを言う本でないなぁと

買った本を読みながら帰りの電車で思った。

頭の中には

さよならcolorsuper butter dog

が流れていて、

この感情がおしまいってことかなんて。

 

 

「さよならからはじまることが

    たくさんあるんだよ」

 

 

そう自分に言い聞かせて、家に帰った。

二つ丸をつけて

ちょっぴり大人になったような

こぼれ落ちた涙を流れ星に変えて

星の降る夜の中、そっと長い瞬きをした。