きっと響かない

専門学校を出たくせに高等教育機関を出たかのように振る舞う元高専生のブログ。理系でコミュ障でオタクという役満な人生とは是如何に。

雨男が生きる砂漠に雨は降らない

気がつけば25歳

 

一部の人を敵に回すかもしれないが

アラウンドサーティーの仲間入りだ。

 

今日は僕が雨男って話をしたい

 

 

営業の仕事をする僕が

お客さんに言われることがある

 

「今日なんか風強えし、

雨降ってきたから君が来ると思ったよ」

 

来ると思ったよってフレーズと

到底結びつけてならないようなセリフである。

風強えし?

雨降ってきたから?

え?

 

どういうリアクションを取れば良いのか。

風強えってサイヤ人かよ、地球育ちの。

けぇぜつぇええしって発音すんのか。

 

確かに僕が仕事をすると雨が降る。

俗に言う死神だ、仙台だけに、伊坂的な。

 

現場仕事が多い僕にとっては結構致命的で、

大体辛い目に合うのは自分。

 

そんな僕が切に願うものが2つある。

1つ目は宝くじ当たれってこと。

日本人の9割5分3厘くらいの人が

思っているはず、たとえ買ってなくても。

 

2つ目はモテ期来いってこと。

ここでタイトル回収って事で。

 

彼女って存在はここ10年出来てない、

とても悲しい。とっても。

 

長澤まさみっぽいショートカット美女とか、

多部未華子っぽいロング淑女とか、

秋元真夏っぽいロングお姉さんでもいい。

(こいつ髪の話しかしねぇな)

 

 

雨男は日照りに遭遇し、

一人暮らしなのに

薄さ0.03mmの傘すら持たず(直喩)、

ただオアシスを求め彷徨っている。

 

たまには熱帯雨林に行きたい、

ジャングルに遭遇したい(直喩)気持ちが

抑えられなくなりそうな時がある。

 

コロナで照らされた僕の砂漠よ、

雨降ってくれ頼む。

 

 

雨男は切に、願う。

 

朔太郎が○○たかったこと

タイトルを考え、

記事の内容を考え、

どう組み立てて行こうか

考えたけど纏まらなかった。

 

ブログの書き出しとしては

人類史に残る最低な始まりである。

 

まぁ更新頻度を見て

ある程度はお察しではあったけども。

 

僕なりに書き留めたいと思う。

書くにあたって

もう一度映画版を見直した、

映画から入った僕は

原作にあまり熱を入れられず(読んだけど)、

ドラマは描写が辛すぎて

平静を保ちながら見れる気が起きなかった。

 

珍しく記事の題名の通り、書いていこう。

 

・朔太郎が知りたかったこと

この点は動機は単純だと思う、

なぜ自分の恋人がある日突然失踪し、

勢力のとても強い台風が襲ってきているという

自分の故郷に居るのか。

恋人を駆り立てるものは何か。

 

胸騒ぎの中で、

封印していたはずの記憶と向き合っていく。

単純に思い出すより、

当時の人間の肉声から

綴られる思い出によって、

鮮明に映し出されていく。

記憶を、傷痕を、想いを。

 

 

その記憶を越えたところで、

今の恋人と歩く未来を、

数奇な巡り合わせによって

過去から届いた元恋人のメッセージから、

紡ぎ出そうとしている。

 

僕にはこんな劇的な出会いこそないけど、

耐えられはしないと思う。

向き合う努力も勇気も放り出して、

体力を守ると思う。

だって当たり前の日々が

失われる辛さを知っているから。

 

動きがあることの怖さを知っているから。

素直に朔太郎ってすごい。

 

 

・朔太郎が伝えたかったこと

これは劇中では描写があまりにも少なく、

感じ取れるアイテムや

エピソードをセレクトするのは難しい。

 

大事なことは

一度も律子を否定しなかった事。

 

電話をかけておきながら

切ってしまったけれど、

隠されたテープの存在を

泣きながら告白する時も、

彼女を否定せず、比べずに受け止めた。

 

あの時空港で、

必死になって助けを、

赦しを乞うばかりだった少年が大人になって。

 

自分に向けて

助けを、赦しを

乞う女性に対して、

唯々共感して受け止めた。

 

亜紀のメッセージが

時を越えて届けた想いを、

朔太郎は受け止めている。

 

亜紀が好きだった、大好きだった。

世界を敵に回しても構わないほどに。

 

その事と本質は変わらない。

 

律子が好きなのだ。

亜紀の願った、届くはずだったメッセージの「幸せになってね」という願いじゃなく。

ただ自分が目にして向き合っている

彼女が好きなのだ。

 

だから朔太郎は律子を受け止めて、

もういいんだよと

子供を諭すように抱きしめた。

 

 

・朔太郎が描きたかったこと

 

以上で

大体のブログに書きたくなったことは終わり。伝わってはいないなぁと反省する。

 

この作品のプロット自体は、

とても簡素な展開で(一部を除き)

タイムリープとか都合主義ではなく、

治る鞘に収まっている。

 

白血病という平成1桁世代までの不治の病や、田舎の高校の同級生カップ

(しかもプラトニックだ!)とか、

交換日記だったり、世間は狭かったり。

 

ここまで来ると映画を見てる方も、

過去の自分と向き合う必要があるかもなんて

ありふれた描写が

(みんな白血病であるわけじゃないし、

病気の人がヒロイックである必要なんてない、むしろ救われるべきだと思うけれど)

こんなにも胸を打つのかと、

ただ思った。

 

やっぱり取り留めもない

ブログになってしまったじゃないか。

 

 

当たり前の日常を

大切に受け止める大人になりたい、

かたち(づくる思いやそこに)あるものを

尊重したい。

 

最後にまとめを投げてしまう自分を

助けて下さい。

へそさがしてる

今回は前回記事で謳ったとおり

セカチューをテーマに自分語りを書きます。

 

僕がセカチューに出会ったのは2005年、

当時小学4年生くらいだったと思う。

家族に大沢たかおの大ファンがいて、

レンタルビデオショップから

借りてきたのを家族で見たのが最初だった。

 

 

当時の僕はスクールカーストなんて

言葉はなかったけど、

なんとなく自分の立場を弁えていて、

中の下という扱いに慣れていた。

 

特にいじめられもしないが、

あまり発言感はなく、

好きに生きるには

根回しと善行ポイントが必要な程度の、

そんな学校生活だった。

 

幸い友達もそれなりにいて、

運動音痴な自分と馬鹿騒ぎしてくれる

グループの中にいた。

勉強は出来たが

運動はからっきしなので

遊ぶときはゲームが多かった。

もちろん異性なんて意識してなかった。

 

そんな、一般的な小学生男子だった僕が

この作品を見た感想は

「綺麗って儚いことなのか」

ということだった。

 

もちろん、今の僕が見れば

 

エモい

 

だけで済ませてしまうのだが。(悪い癖だ)

 

 

セカチューを見てからの僕は

いつもどこかに亜紀を探してたと思うし、

朔太郎みたいに嫌味なく誰かの為に

行動できる人になりたいと思った。

 

価値観を変えるほどの作品

っていう意味では

十代の僕が出会った最初の作品でもある。

 

それまでは

ウルトラマンとか仮面ライダー

世界の全てだと思って生きていた少年が、

これまた良く出来たような

奇妙なフィクションで心動かされるのだから、この年になっては照れ臭さもある。

 

因みにこの少年は

7年後に最強に厳しいとされ、

落としたら即日留年確定するレポートを

書いている時、

部屋の灯り代わりでつけていたTVから

流れ出した「WHITE ALBUM」で

人生を拗らせるのだが、

これはまた別の機会に。

 

 

全く作品に触れない記事、

次でセカチュー編は一度おしまい。

ではまた。

へるぷみー

どうも。

(このブログの密かなルールに則り

下書きから引っ張りだします。

この括弧内以外は2018年末に

書かれていたものです、

当時のノリを尊重して掲載します。)

 

タイトルとかもう

あんまり関係ないかもしれない。

唐突にある文学作品を基にした

映像作品について語りたい、語る。

 

 

 

 

時は遡り2004年、皆さんは何をしてましたか?

私ですか?小学生でした。紛う事なき。

私が小学生の時は

bookwormっていう姿形でした、

カフカの「返信(変身 tranceform)」…

既読無視する奴ではなく、

年間300冊くらい読む本の虫。

授業中もずっと読んでる、変な奴。

当然運動は出来ない、してないし。

 

そんな私は市川拓司が大好きだったけど、

まだ僕が市川拓司と出会う前のお話。

片山恭一という作家の作品の話。

 

 

 

「Crying Out Love, in the Centre of the World」

知ってる?

 

 

え?わかりづらい?

 

 

 

 

世界の中心で、愛をさけぶ

 

 

 

 

そこで叫んじゃったかーってなるやつ。

そこのきみ、Tomorrow never knows

一緒にしない。

同じなのはオーストラリア🇦🇺だけだ。

 

愛を叫んだかどうかはさておき

「助けてください」と叫んだのは間違いない。

2001年発売のこの作品は、

"ケータイ小説"という

言葉が出来たばかりの時代の小説。

この作品は何の変哲も無い小説だけど、

正直言って内容はベッタベタの恋愛小説で

オーソドックスというか、

ありきたりというか、

テンプレートというか、

シンプルイズベストって感じ。

 

田舎のプラトニックな高校生カップルの

彼女が白血病で死んでしまう、そんな話。

 

今でこそ白血病は治るというか、

死なない病気に成りつつあるけど、

当時はまだ8年以上の生存率が

6割くらいの

まぁ死んでしまうだろうなぁって

病気だった。

 

ここまでは

この文学作品のフレーバーについてしか

触れてない。

初の長編記事になってしまうのか。

セカチュー同様

206ページ書いてしまうのか⁉︎

乞うご期待。

 

まじめに続きは次の記事へ

 

エモーショナルという言葉と意味にあたる感情

エモいという言葉がある。

エモーショナル(emotional) -感情的な- という形容詞の英単語から来ている。

 

個人的にはノスタルジック(nostalgic)と同じ意味合いで使っている。

フジファブリックの「若者のすべて」とか

忌野清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」、

ZARDの「Good-bye My Loneliness」とかを聴いたときに揺さぶられる感情を言い表している。胸の奥が締め付けられて、どこか後悔したような気持ちで、若かったなとか年取ったなとか言ってしまう感情だ。

 

さて、久しぶりのブログ記事なので伝えたい内容に戻そう。

 

 

 

 

 

同郷の才能に溢れた未来ある若人が亡くなった。

三浦春馬」という俳優、歌手、表現者だ。

ここに故人の冥福をお祈りする。

また、将来にわたって好きな出演作を心に刻む事を誓う。

 

7月18日は仕事をしていて、会社に出ていた。家に帰り、夕飯を作っているときに流れたそのニュースを聞いた時は

「今日はエイプリルフールではない…よな」

という名状し難い感情があった。

とても信じられなかったし、喪失感というより、何が起こったか分かっているのに分からないような気にしたい、向き合いたくないという感情があった。

 

正直に書くと、僕は彼の大ファンだ!とは言えないと思う。

「サムライハイスクール」や「オトナ高校」、「恋空」、「君に届け」、「真夜中の五分前」(原作小説は穴が開くほど読んだ)くらいしか見てない。

同じ故郷を持つ憧れの存在くらいに思っていた。

 

1番好きな作品は、僕が仙台に住んだ事や多部未華子の大ファンである事が重なってるために観た「アイネクライネ・ナハトムジーク」だ。

劇場には3回行き、Blu-rayまで購入した。

一言で言うと、エモい映画だった。

セカチュー」や「いま、会いに行きます」といった作品に触れた時の"エモい"とは違う。

「アバウト・タイム」とか「そのときは彼によろしく」を見たときのような"エモさ"なんだと思う。

 

真面目で素朴な青年、佐藤を演じた彼(自然体な演技は彼自身の人柄だったと昨今のネットニュースやラジオ放送で知った)が、4年後に多部ちゃんと恋人役で再々再共演して欲しかった彼を見る事はもう叶わない。

 

過ぎたことは変えられない。

辛い事は乗り越えるしかない。

 

ただこの感情を吐き出したかった。

吐き出さなければいけないと、自分自身に空いた穴を認識せねばと思った。

 

最後に、大好きな映画のセリフから引用して終わりにしよう。

 

 

「あの時、あの場所で出会ったのが、彼が出ているあの映画で良かった」

別れの向こう/約束の大地

全く触れてなかったがSDガンダムGジェネレーションシリーズのファンだ。

 

中でもDSは人生で1番プレイしたゲームだ。

何度も大好きなカミーユを破壊と再生の権化としたし、崩壊ENDもさせた。

怪作であり神ゲーだ。

 

最新作のクロスレイズもプレイした。

誤字脱字は気になるし、微妙な展開改変もあるし、カットイン多くて固有撃破ムービー邪魔でも、概ね満足にオールクリアした。

 

クロスレイズを話したからには、触れねばならないだろう、平成最後の花火に。

椎名林檎もびっくりする生き様の物語。

閃光少年こと、「鉄血のオルフェンズ

 

恥ずかしながらクロスレイズプレイ後にアニメ全部みた、U-NEXT様様だ。

アニメはストリーミング中めっちゃ止まってストレス溜まるが、見放題には勝てなかった。

 

感想としてはシンプルだ。

散るべくして散った命の物語。

ガランモッサが言った

「マトモな奴から死んでいく」、真理だ。

"惜しい"人しか失くさないのだ。

"大切"なものしか失わないと気づけないのだ。

 

少年たちはマトモだがマトモじゃない。

ただ、彼らにはこれしか出来ない。

他に手段を持たなかっただけだ。

 

だからこそ、手段を探したタカキやザックは生き残ったし、彼らなりに幸せを見つけている。

 

そして、だからこそ三日月はもちろん、明弘やシノ、オルガなど稀代のヒーローは死んだ。

 

物事は綺麗事では語れない、主人公の鉄華団の面々は綺麗じゃないし汚れ仕事屋だったとしても、ラスタルエリオンは正しかった。

正しさを貫いてマトモじゃなく映り(生き)残った。彼は戦後を見通し、世の平定を求めた確かな結果だ。

 

イオクが死んだのは正直誤算だ、マトモな人間臭さを持つキャラクターで、とても僕のようなゆとり世代に近い考え方や行動をとる。

周りからはこんなにもイタく映るし、鏡を見てるようで嫌になるものだ。

言ってしまえばマトモだから死んだのだけど。

 

劇中マトモを貫いたキャラで死んでないメインキャラは他にもいる、前述のタカキやザックはそうだ。もっとネームドがいる。

クーデリア・藍那・バーンスタイン

1話から登場し、主人公サイドで唯一と言っていい程、当初からの目標を叶えたキャラだ。

 

オルフェンズは、彼女が多数の尸を超え、革命の乙女と成す物語であったとも言える。

2期では空気だね。という友人の意見も聞いたが個人的には単純に恋する乙女になっただけとも思った。それ故に血生臭い鉄華団とは絡みづらく、フォーカスされにくくなっただけだ。

 

 

いろいろぐだぐだ述べたけど

最高に面白い作品であったのは確かだ。

彼ら鉄華団に生きてて欲しかったのも確か。

 

彼らは散るべくして散ったが、もう一つの真理を最後に教えてくれた。

"暁"だ。「明けない夜は無い」事を。

辛いことのない人は無いが、自分のツキを信じて夜が明けるまで走り続けたい。

 

止まらず、に。

 

それは紛れもなく

ヤツさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな書き出しで始まってしまえば

もうそれはヤツの仕業でしかない。

 

読むだけで"むせる"

これは違う作品だ。

 

令和元年というホットな年に更新したのは

令和という文字を一切使わずに

好きだったアイドルの話をした

記事だけらしい。

 

あまりにゆゆ式事態だ。つっこまないぞ。

とはいえ特に書くことはない。

だって何もしてないから。

 

特に彼女もできず、

野郎4人で熊本に

温泉なんか入りに行っちゃって

夜通しスマブラしたりとか、

家でゴロゴロNetflixみたくらいだ。

たまにランニング、ゴルフとか。

 

 

いつになったらヤツは出てくるのかって?

まぁ待ってくれ。話を戻そう。

 

Netflixはオリジナルが強い、

作品数は少ないわけじゃないが

痒いとこに届いてない感じもある。

 

例えば、ガンダム00はTVのみで劇場版がない。

オルフェンズは配信停止になった。

そもそもユニコーンは再編集版のみ。

あれ?もしかしてガンダムの話しかしてない

おかしい。

 

最近何度も見ちゃったくらい良かったのは

トータル・リコール」(シュワちゃん版)

原作は「追憶売ります」って文学作品。

ここでやっとヤツとの接点が出てくる。

 

やっぱり名作と語られる作品は面白い。

VFXだけじゃなく、特撮も凝っているし

世界観のデザイニングがとっても好み。

コリン・ファレル版も見たけど、

ちょっと汗臭さがなくて味気ない。

単的にマッスルが足りない。

 

見た後に色々調べていたら

その同じ文学作品に

インスパイアされた漫画があるらしいと知り、そこでヤツと出会った。

ブックオフでは1巻だけがなかった、

 

どういう事だレディ。

 

youtubeでは公式で

アニメ1話が無料視聴出来るが、

とても30分番組とは思えない

出来の良さに衝撃を覚えた。

 

とにかくオシャレで、面白くて、新しい。

古さなんて感じない、これこそSFって感じ。

キューブリックも好きだけど、

僕は性格上ハッピーエンドが好きなので

ヤツの方がいい。

 

少しでも気になって見てくれると

カズレーザーのファンとしても鼻が高い。

 

去年唯一書いた記事のような感じで書いて見たけど、まぁこんなもんじゃないかな。

 

新年、忙しくなっちゃってさぁ

このへんで。